PAULING博士の功績

ライナス・カール・ポーリング博士は1901年2月28日、米国オレゴン州に生まれ、1994年8月、米国カリフォルニア州の自宅において93歳で死去しました。博士は偉大な化学者であるとともに、反核反戦の闘士としても著名な博士でした。生誕100年を越えて今改めて脚光を浴びているのは、その先駆的な予防医学への頁献であることでしょう。ここでは、博士のその功績を少したどっていきます。

「末は博士か、大臣か」という言葉がありますが、それを上回ると大方の国民が思うのが、「ノーベル賞の受賞」でしょう。欧米人にとってもノーベル賞の重みは格別です。ポーリング博士はその賞を2回も受賞したのですから、これを偉業と言わずなんと表現できるでしょうか。さらに、世界中でノーベル賞の2回受賞者は、キュリー夫人含め数人いますが、異なった部門(化学賞と平和賞)での単独受賞は、ポーリング博士だけなのです(2015年現在)。

ポーリング博士は9歳のとき、父親を病気で失い、大学に入る前、見習い機械工として働いたことがありました。進学した大学も名門とは言い難いものでした。博士の人生を大きく変えたのはカリフォルニア工科大学大学院への進学と、ヨーロッパへの留学と言われています。留学を可能にしたのはグッゲンハイム留学奨励金でした。この留学で、ゾンマーフェルト、シュレーディンガー、ボーアといったノーベル賞級の物理学者から量子力学を学んだことが、博士の化学者としての道を決定的にしました。

ポーリング博士を語る上で見過ごしてならないのは、生まれ持った優れた頭脳とともに、権威や定説をものともしない反骨精神であるといえるでしょう。それはまず、エバ夫人との強い連帯の下にさまざまな妨害と圧力をはね返して展開した平和運動に発揮され、ノーベル平和賞として結実していきました。
実は、博士は3回目のノーベル賞もほぼ手中にしていたと言われていました。20世紀の三大発見の一つといわれるDNA(遺伝子)の二重らせん構造の発見です。その栄誉はワトソン、クリック、ウイルキンスという米英の3人の若い科学者に輝き、ノーベル医学・生理学賞を受けるが、ポーリング博士は彼ら以前にらせん構造に到達していたそうです。

ただ、ポーリング博士は三重らせんが有力と考え、結果的にワトソンらに先を越された形になったとのことですが、ポーリング博士がⅩ線解析学者のウイルキンスが撮ったDNAのⅩ線回折写真を見る機会があったら、博士が先に二重らせんを発見していただろうとの見方があるそうです。その機会を逸した背景には、ポーリング博士の反核・平和運動を好ましく思わなかった米国政府が博士へのパスポートの発行を一時拒否したことにあるというから、運命は皮肉としか言い様がないですね。当時まだ20歳代だったワトソンは以来、半世紀にわたって世界の分子生物学界をリードすることになりました。

見直されているのは、これから医療は病気の予防にこそ力を注ぐべきだという博士の考え方

さらに、ポーリング博士が晩年に取り組んだビタミンCの効用を中心とする分子矯正医学の提唱にも、その反骨精神はいかんなく発揮されていきました。分かりやすくいえば、「ビタミンCの大量摂取は風邪、がんをはじめとするさまざまな病気の治療・予防に効果がある」というのが博士の主張で、自らも1日数グラムのビタミンCを摂取していたそうです。それは「ビタミンC摂取は1日60mg程度で十分」という長い間の常識を打ち破るものでした。1970年に米国で博士が著した「ビタミンCと風邪」が出版されると、たちまちベストセラーとなり、全米のドラッグストア(薬局)のビタミンC剤が底をついたとのことです。一方、米国政府の食品医薬品局、米国医師会などの医学界は博士に批判的で「ビタミンCの効用には証拠がない」「大量摂取には副作用がある」などの意見を出しました。しかし、博士はこれら一つ一つに科学的根拠を持って応え、最期まで自説を曲げることはなかったとのことです。
その論争と実験は現在も様々な科学者によって研究が継続されており、だれもが納得する結論は得られていないのですが、情勢は年を迫って、博士の説に有利になっているそうです。ビタミンCは風邪やがんを治すとはいえないまでも、治療を助けたり、ある程度予防する力が認められつつあるからです。それにも増して見直されているのは、これから医療は病気の予防にこそ力を注ぐべきだという博士の考え方でしょう。その予防医学こそ、今後の医寮の最重点にすべきだという意見は、日本だけでなく世界の世論になりつつあります。

PAGE TOP